6.「ともだち」の背後にある暴力と権力
『妖怪ウォッチ』に対する親世代の反応は「友情がテーマ」と誤解をしている人々が多い。妖怪とケータは「ともだち」になるが、一般的に考える友情とは遠く、主従関係である。ご主人様であるケータは奴隷の妖怪たちを戦いや説得して他の妖怪を手にいれるために使っている。交渉が渋っているとメダルから他の妖怪を呼び出し、戦うことを命令する。「ともだち」であるはずの妖怪は、ご主人様のケータの言葉に従い、他妖怪をやっつける役割を担う。
一番可哀そうな妖怪は「じんめん犬」だ。人間の顔をして人語をしゃべる都市伝説の「人面犬」が元になった妖怪で、人間のサラリーマンとトイプードルが合体して造られた妖怪である。体はトイプードルで顔はおっさんである「じんめん犬」は「きもがられる」存在であるが、「モテモテになる」ことを夢見ている。32年間も会社勤めだというならば50代後半の年だと思われる「じんめん犬」がその様子で嫌われ、避けられることを見ていると妙な気分になる。


祖・親世代の生き方を会社の犬に例え、おもちゃにしたものを藁っいながら馬鹿にする子供世代。何と恐ろしい世代だろう。親も笑いものにするのに、友達を奴隷にして使うのは平気だ。ケータは度々「じんめん犬」を「おっさん犬」と呼んで、使い放題に使っておきながらも、気持ち悪く思っていたり、自分より下のものと見ている。
ケータは「じんめん犬」を何度も都合よく召喚するが、犬の本性から道端で小便をして逮捕されていたじんめん犬はケータの召喚により望まぬ脱獄を繰り返すことになる。そして犬の本性からおかしてしまうミスが犯罪になったことに重なって脱獄がたびたびされたがために、後に外国のとある刑務所に連れていかれる。それでも構わずケータは必要なときだけ「じんめん犬」を呼び出し、利用する。親世代を馬鹿にしながら骨髄まで搾り取る子世代に見えて仕方がない。

一緒に暮らしている妖怪ジバニャンと妖怪執事ウィスパーに対してもそうだ。「ロボニャン始動!」では、未来からやってきたロボット妖怪ロボニャンとジバニャンを対決させており、セバスチャンの執事としての能力がウィスパーより優れていると思ったケータとジバニャンはセバスチャンを向かい入れた。どちらのエピソードも、ジバニャンとウィスパーが結局のところ選ばれるのだが、その理由はとても怖い。電気料金が高くつくというロボニャンに比べて、ジバニャンは「チョコ棒」だけでいいから「お安いやつ」というのが理由だからだ。ウィスパーが再びケータによって必要とされるのは、新しい執事妖怪の利用価値がないと判断されたときだ。
『妖怪ウォッチ』の最大な問題点は、子供が共感してもらえるようにという意図で、子供の利己的欲望を正当化している点である。ケータは悪人ではない。彼は「ごく普通の子供」として、子供が持っている利己的欲望を代弁する。ここに倫理や道徳はない。

私が『ポケットモンスター』よりも『妖怪ウォッチ』の暴力性が危険だと考えるのは、『妖怪ウォッチ』における欲望と欲望のための働きがより洗練された形だからだった。
欲望を刺激するための主な方法は二つある。恐怖と不安を利用する方法と、劣等感、羞恥心といったような否定的な感情を利用する方法だ。前者は受動的に欲望を欲望するように仕向ける半面、後者は優越感を追求するよう誘導する方法だ。『妖怪ウォッチ』は「妖怪」という特殊性を使っている点で前者に近いように思えるかもしれないが、後者の方に近い。普通の子供が妖怪メダルをたくさんゲットすることによって(妖怪を利用することによって)優越感を満たすように仕向ける。もちろんここでお金を得るのは作り手であって、そのために消費者である子供たちの普通であるコンプレックスを刺激する。
ケータは力づくしで妖怪を倒すこともあれば、説得することもある。欲望に振り回されて生きている私たちの自画像でもある。ケータの説得は、妖怪の力を奪うための説得であり、その過程には嘘が含まれている。妖怪を思いやるかのように近づくこともあれば、妖怪のせいで友達が困っているということをアピールして、去ってもらおうとする。だがそれはケータのためであって妖怪のためではない。正直これは詐欺に近いやり方で、上手い言葉を使って相手を屈服させる雄弁術と言ってもいい。このアニメのテーマは「友情」ではない。相手を支配するための「力」への「欲望」である。
アニメーションは本来娯楽、楽しみを目的にしている資本主義の文化商品である。だが、快楽主義的性向のポストモダニズムの属性と資本主義の欲望に基づいているため子供向けの『妖怪ウォッチ』の危険性は図りえるものではない。『妖怪ウォッチ』が散らかしているウィルスは暴力と欲望だ。そのための手段は友達と思わせてその能力を奪ったり、利用する。何の罪意識もなければ顧みることもない。徹底的に資本の原理に従っている。資本主義は人間の主体性を奪い、機械化してしまう。機械のように同じくさせて全体主義の論理を貫く。
<目次>
1.『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム
2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義
3.ポストモダンと『妖怪ウォッチ』
3.1.妖怪と人間を「モノ」にする社会システム
3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という台詞のポストモダン的側面
4.「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)(②)
5.なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか
6.「ともだち」の背後にある暴力と権力