主人公・ケータは現代の小さいヒトラーだ(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち④-1)

「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)

人は他の人との関係を結びながら生きる動物である。人との関わりを通して個人は自己中心的な思考体系から脱却できる。そのことによって倫理や人権というものが確立し、真の意味で人間と言えるものになる。だが、21世紀の民主主義国家日本に人権というものは存在しない。法律上では守られている人権は、現実を生きる私たちとは無縁だと言える。言い過ぎかも知れないが私たちの人権というものへの意識が非常に薄いのも事実だ。人権の持ち主が持つべき主体性が欠如しているからだ。

消費主義社会において、消費欲はもはや個人の欲求ではない。欲望というものを欲するように仕向ける今日の社会における個人の欲望は、社会によって操作されている。他人の目に映る自分の姿を重視し、それによって満足を得られる人々が増えており、短期的な快楽を求める人々も増えている。最早、節約の美徳云々というのは過去の遺物に過ぎない。個人的なものに見える嗜好も、個人的なものではなくなっている。歯止めがきかない資本社会の歯車は過剰生産品を消費させるため個人の思考を支配している。過去の資本社会が植民地を作って支配国民を洗脳させ、物を売りつくしたのに対して現代の資本主義はマスコミの力で知らずのうちに個人の思考を支配し、徹底的に物を売りつくしている。これがポストモダンの資本主義 である。

人間の人権は、主体性によるものであり平等といったものによるものではない。人権は、個人の存在の問題でありながら、社会的構造、つまり関係の問題である。我とは異なる汝に囲まれて生きる私たちが完全に平等な社会を作ることは不可能であるし、可能だとしてもその中では損をする人が現れる。損をする人にとっては不条理な社会である。誰一人損も得もすることのない平等な社会を築けるとしたら、それはロボットの世界であり、非人間的な世界だ。社会的構造によって人間の真の実存が奪われることに繋がる。

hannah

近代を政治と対比される社会の登場であると考えたハンナ・アーレントによれば、人間には「労働」「仕事」「活動」の3つの活動力があって、それらが人間を他の動物から区別している。しかし、近代社会は「労働社会」となり、人間はいまや機械化の危機に犯されているのだ。アーレントはこのような社会の登場が究極的に到達するのは全体主義だという。

ドイツの全体主義は、この「自由」と「平等」のためにドイツ国民が連帯してドイツという「国民国家」を形成する際に生まれたものであった。ドイツ人が国民という強い連帯意識の上に成り立って統一された全体主義は、個々の国民を国家という全体を構成する一つの部品と見なした。この時、国民個々の個性は抹殺され、国家という全体のための道具になってしまう。この際、人と人の間の関係性は生まれて来ない。互いの間に「間」がないからだ。この「間」をアーレントは「複数性」と呼ぶ。なお、この「複数性」の中で互いを認め合い、クリエイティブに活動することができるとき、人は人間らしくなるというのである。

生まれながら平等で自由な権利を持つという幻想を生み出した民主主義は、反って人と人の間の空間をつぶし、人間性を抹殺する全体主義に化した。このように非人間化された人々の生の営みに民主主義が訴える自由と平等は存在しえない。

『妖怪ウォッチ』の話に戻ろう。『妖怪ウォッチ』は、非人間化が進み過ぎ、思考することをやめた人々が大幅に増えた21世紀の子供を対象にしたアニメーションである。この子供たちの親世代も、思考することをやめ、批判的に物事を捉えずに、ポストモダン的な「なんでもいいじゃん」というような考えの持ち主が多かった。ゆえに『妖怪ウォッチ』は、人間を非人間化する全体化、道具化する資本の原理という暴力性の誘惑そのものをテーマにしておきながらも、大人気を得るのだ。作者が意図しているか否かにかかわらず、『妖怪ウォッチ』の世界観が目指す目標点は、「違い」を生み出さないことである。この物語において、何か「変わった行動(とケータが見なすもの)」はすべて「妖怪の仕業」である。妖怪にとりつかれて、普段とは違う行動をすることになっており、それは「変」なものと規定され、「やっつける」対象となる。

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ジバニャンに新しい妖怪をやっつけるように命令しているケータ ©l5/ywp・tx

このように考えると『妖怪ウォッチ』の暴力性は、皆が画一化され、統一化されなければいけないという強迫観念からのものだ。ポストモダンは相対主義を目指し、すべてを受け入れるという精神を芽生えさせた。言い換えると、それは絶対的なものを排除する精神であり、今日においては確立されたイデオロギーを持たないことが善とされる。それは「一つの確立されたイデオロギーを持たない」というもう一つの全体性に過ぎない。このようなパラダイムの世界は、ある絶対的な基準を持つことを否定する点で、全体主義の危険性を共有する。ポストモダンの思想は「全体性を否定するようだが多様化という全体性に陥る矛盾を抱えているのだ。

異なるものへの恐れを捨てて受容しながらも確固たる思考の中心を持っている事、その広くて豊かな姿勢が主権をもって生きることだ。マイノリティをマジョリティに無理やり組み込むことではなく、もっと多くのマイノリティを生み出す構図が最も人間らしく生きられる社会構造なのだ。その世界にはマイノリティもマジョリティもない、主体性をもって生きる「人間」が営む社会であろう。なのに、ポストモダニズムは違いを重んじる姿をみせながら個々から確固たる主体性を奪う。木に例えると、本柱のない枝ばかりの木を要求している点で危険だ。しかも、枝ばかり認めなさいという「形の変わった全体性」という矛盾を押し付けている。

『妖怪ウォッチ』では、マイノリティを認めない。社会の統一性と価値の画一化が目指す世界はハクスリーが描いた『素晴らしい新世界』の姿に他ならない。『妖怪ウォッチ』の中で垣間見れる暴力性は、人々が当たり前に持つ「違い」を認めず、統一された全体の中に従属させようとする過程で生まれるものだ。「出る釘が打たれる」ということわざがある。「出る釘が打たれる」社会において、個性(差異)は恐怖であり不安なものとなるのでその「出る」部分を抹殺しなければいけないのだ。

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違いを排斥する文化の背後には「恐怖」がある。異なる文化や思考体系が現れると既存の文化や共同体を破壊したり変質すると思うから排斥してしまうのだ。個性を持って実存する人間は、効率性を最も重要視する社会における異邦人であり、効率化を乱すものとされる。だから「打たれて」しまう対象になる。『妖怪ウォッチ』の妖怪と人間の関係は、まるでマイノリティとそれを抑圧するマジョリティの関係に思える。

何かいつもと違う行動をする人を見ると、物語のヒーローであるケータは、「あれはおかしいよ!絶対妖怪の仕業だよ!」と叫んで、その人をおかしくさせた妖怪を見つけて倒す。私にはその姿が現代の小さなヒトラーのように思える。


<目次>

1.『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム
2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義
3.ポストモダンと『妖怪ウォッチ』
3.1.妖怪と人間を「モノ」にする社会システム
3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という台詞のポストモダン的側面
4.「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)(②)
5.なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか
6.「ともだち」の背後にある暴力と権力 

主人公・ケータは現代の小さいヒトラーだ(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち④-1)” への7件のフィードバック

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