『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち②)

2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義

テレビアニメ『妖怪ウォッチ』のエピソードは、メインストーリーになる2本の小エピソードとショートストーリーがセットとして成り立っている。メインストーリーでは、「問題発生―問題を起こしている妖怪発見、問題解決&新しい妖怪メダル入手」というプロットに沿って展開される。ショートストーリーでは、「じんめん犬」や「コマさん」などといったある妖怪が主人公となり、本編とは直接的な関係のない物語が描かれている。じんめん犬の脱獄物語やコマさんの上京記といった類の数編に渡ってシリーズ化したものもある。

舞台はどこにでもありそうな新興住宅街「さくらニュータウン」である。また小学生ケータをはじめ、ケータの友達は皆どの学校にもいそうな、平凡な子供である。特にケータは、「ごく普通の男の子」そのものである。「普通」という言葉は、普通という概念の曖昧さゆえに非常にやっかいな言葉である。正確に言えばケータという人物は、日本社会における「普通だと思われる」子の事である。この何処にもいそうな「普通」っぽさがこのアニメを見る子供たちを引き付けている。

©l5/ywp・tx
©l5/ywp・tx

これは偶然ではない。ゲームソフト『妖怪ウォッチ』をこの世に送り出したレベルファイブの日野晃博社長が「現代の『ドラえもん』を作りたかった」がための戦略の下のものだ。彼は「妖怪ウォッチの主人公ケータは普通というのが欠点、という設定にした」理由について、「ドラえもんの主人公『のび太』は落ちこぼれのキャラクター」であるが、「今の時代は、個性がなく何をやっても普通の子に対しての方が感情移入しやすい」からだと言う。[9]

普通な子ケータと、普通から逸脱した非普通な妖怪の組み合わせが意外な化学反応を起こすのが『妖怪ウォッチ』の魅力だ。経済大国になってからの日本はいつの間にか「普通が一番」という強迫観念に支配されている。『妖怪ウォッチ』の世界において、世の中に起きる様々な不祥事案件は、「すべて妖怪の仕業」だ。世の中に悪い人などいない。「妖怪」がいなければ、何かおかしな行動をする人もいないはずだ。だが、世の中には不思議な出来事がたくさん起きている。日本だけではない。人間の生き様はいつも不思議な出来事の連続だ。人と人が群れを成して生きる社会が簡単で一律であればどれほど楽だろう。

しかし、人間はすごく複雑な生き物で、その人間が生きる社会には必ず様々ないざこざと物語がある。だが、心配する必要はない。すべてが「妖怪の仕業」であるからだ。だから、「妖怪」を「やっつける」ことができれば、すべての問題は解決なのだ。

この理想的な世界を開く鍵として提示されるのが日本伝統の「妖怪」だ。理性が支配する欧米の近代が極めて短かった日本においては「妖怪」というものが西洋の「魔女」や「幽霊」などが持つほどのネガティブなイメージが発達することはなかった。しかし、魔女・幽霊・ドラキュラと言った西洋の怪談と同様に、妖怪も人間の心の闇、恐怖心から生まれたものだ。妖怪は科学では解明されない力を持ったものであり、人間の知識と力を超えている存在という点で日本の妖怪と欧米の魔物はある程度の類似性を持っている。

妖怪物語は、西洋のゴシック物語とファンタジー物語両方の特性を共有している。おもしろいのは、日本文化の中で妖怪は怖いものを超えて、エンターテインメント的な要素を含んで発達したということだ。自然を恐れながらも自然の中の一部として生きる日本人の宗教観が影響したのかもしれない。悪戯っぽい妖怪の面目が日本のおとぎ話に珍しくないのも事実だ。その子供染みた悪戯に昔からの日本人は有る類の親しみを持っているのも否定できない。

© 1997 二馬力・GND
© 1997 二馬力・GND

昔話や怪談の中で親しまれていた妖怪たちは、マスメディアの発達と共にあらゆる文化コンテンツの中でその姿を表している。日本独特の妖怪文化が、日本人に最も親しみやすいファンタジーの舞台を作る装置となったのも当然な経緯だ。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』や、アニメ『妖怪人間ベム』、スタジオジブリの『もののけ姫』などがその代表的なものである。『もののけ姫』を作った宮崎駿は、積極的に妖怪を物語の中に組み込んだ監督であった。彼は、日本の感性が溶け込まれた物語の中に妖怪を叙情的に描いた。『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』、『もののけ姫』などがその例である。『妖怪ウォッチ』の世界観の土台は、表面的には、「妖怪と人間の共暮らし」である。「共暮らし」で起きるいざこざをケ ータが解決していく。アニメの中でいざこざを引き起こす妖怪は、伝統的な妖怪の姿よりずっとかわいく愛くるしい。また、悪いことを起こす妖怪もそれぞれの事情があるのも面白い。

©l5/ywp・tx
©l5/ywp・tx

『妖怪ウォッチ』の中で人間世界のあらゆる不祥事というものは、すべて妖怪が人間にとりついて引き起こすものだ。ケータは毎エピソードで問題を起こした原因となる妖怪とバトルをし、バトルに負けた妖怪はケータの「ともだち」になる。すると、妖怪は友情の証として「妖怪メダル」をケータに渡す。

ここで妖怪の世界というのは、ケータが生活する人間世界とは異なる世界だ。これは児童ファンタジー物語によくあるパターンだ。ファンタジー物語の作り手は、現実世界とは異なる第2の世界を創造することから物語を展開させることが多い。『不思議な国のアリス』や、『魔法遣いオズ』、『ハリー・ポッター』などがその例である。これらの物語の主人公(=活動主体)は、彼らが属している現実世界を離れ、新たな現実の中で自己を実現する冒険を始めるようになる。新しい世界は第1世界とは区別される世界であり、異化された空間である。

人間の生の営みに様々な影響を及ぼす妖怪の存在を知ることによってケータは、現実世界と超現実の世界両方の住民になるのだが、彼が住む世界は、両方の世界が混合した世界という点で『ハリー・ポッター』の世界観に似ている。ハリー・ポッターは現実のイギリスに住んでいる男の子であったが、「ホグワーツ魔法魔術学校」に入学することによって魔女と魔法の世界にも属するようになる。同様に『妖怪ウォッチ』では「ごく普通」な現実世界を生きるケータが「妖怪ウォッチ」を手に入れ、妖怪たちと共に暮らす世界にも属すようになる。

日本伝統文化の「妖怪」を用いて今日の社会を映している『妖怪ウォッチ』は、妖怪という恐るべきものはかわいい生き物に置き換えている点で、一昔流行っていた『ポケットモンスター』を連想させる部分がある。どちらもクロスメディア戦略により、ゲームやアニメ、映画などといった多方面で子供たちの支持を得、社会現象を起こした日本のアニメだ。『ポケットモンスター(以下、ポケモン)』がモンスター(怪物)というものをかわいい姿で描き、子供たちの購買欲を刺激していたように『妖怪ウォッチ』は妖怪を愛らしくかわいい存在として描いている。

両者が大きく区別される点といえば、『ポケットモンスター』は舞台が森となっているためアドベンチャー性とファンタジー性が強いといえるが『妖怪ウォッチ』はごく日常的な生活の場面を背景にしている。また、「交渉」と「力づくし」ではなく、「バトル(=力づくし)」でモンスターを倒し、収取していくポケモンの方がやや暴力的であるとは言える。後ほど詳しく述べる予定だが、『妖怪ウォッチ』の暴力性は『ポケットモンスター』に負けるものではない。

どちらもモンスター、もしくは妖怪を小間使いする点では違いがないと思うが、『妖怪ウォッチ』の暴力は、「ともだち」と呼んでいながらも「闘犬」として扱うポケモンの暴力ほど単純かつ直接的なものではない。巧妙で洗練された形の、21世紀型の暴力を見せてくれる。しかも「ともだち」という言葉を使っている。

『妖怪ウォッチ』においてこの第2の世界を開く鍵となるのは「妖怪」の存在である。主人公ケータは偶然なきっかけで妖怪をみることができる妖怪ウォッチを手に入れる。テレビアニメの第1話「妖怪がいる!(2014年1月8日放送)」では、ケータと妖怪執事「ウィスパー」との出会いが描かれている。それによって昆虫採集をしているケータは「ジバニャン」がなぜ妖怪になったかを知る。「ジバニャン」はケータの初めての妖怪友たちである。

第1話は、やや不気味なBGMと夏の森を背景に、ガチャガチャを回す少年のシーンから始まる。ガチャガチャから出てきたものは、『ポケットモンスター』の「ポケットボール」のようなものだ。少年がボールを開けると、周りが暗くなって嵐の中に何かが現れる。その嵐を見つめる少年と共に「ある夏の暑い日、俺は奇妙なものに出会った」というナレーションが始まる。

©l5/ywp・tx
©l5/ywp・tx

小学5年生の天野景太(ケータ)は友人のクマと共にクワガタなどを採集しているところから物語は始まる。クマが採集したのがケータのより大きかったので、負けたくなかったケータは「すごいものを取る」ため森の奥へ足を踏み込み、ガシャガシャを発見する。そこに100円玉を入れると中からウィスパーという妖怪が現れた。約190年前、「正義を気取った坊さん」に悪霊だと決めつけられて封印されていたというウィスパーは、封印を解いてくれたケータの執事になるという。ケータはウィスパーから「妖怪ウォッチ」を渡される。それは妖怪を見えるようにしてくれるものであった。そのことによってケータは人間と様々な妖怪が共に暮らす新たな世界を生きることになる。

「妖怪ウォッチ」を得たケータの住む世界は今までの世界とは大きく異なっていた。家に帰ったケータは、父と母の喧嘩を目にする。妖怪「ドンヨリーヌ」の仕業だった。困っているケータにウィスパーは問題解決のために妖怪をやっつける方法を教える。「交渉」か「力づくし」がそれだ。幸いなことにケータは「交渉」を試みる。空気をどんよりとさせてしまう「ドンヨリーヌ」は、申し訳なさそうに「私にも事情があるじゃばー」という。彼女は夫と喧嘩をし人間にも夫婦喧嘩を起こしたというのだ。

ところで、このアニメーションの主な登場人物の性格は私にとって理解不能なものである。皆自分勝手で利己的だからだ。全てを妖怪のせいにしてしまうのもそうだ。責任を他人任せしたくなる子供の心理をうまく見通しての事である。

ケータとウィスパーの会話はコミュニケーションと言うより、発話に近い。両者が一方的なコミュニケーションの方法で話しているからだ。ウィスパーの自己紹介は、非常に自己本位だ。初めて妖怪を見たケータが好奇心でいろいろ聞くと、「そういう細かいことはおいといて」といって自分の言いたいことを言う。

ジュースを買うためだった100円玉を返してほしいと怒るケータは、わがままな子供の姿そのものだ。ジュースを買うお金でガチャガチャを回したのは自分なのにウィスパーに「100円玉を返して」という。ウィスパーもそうだ。「封印を解いてくれたお礼に、あなたの執事になってあげましょう」という。望んでもいないのに勝手にケータの家に住みつき、勝手に妖怪執事を名乗る。妖怪の姿を見えるようにする「妖怪ウォッチ」も勝手に渡す。そのときの台詞は次である。

「その妖怪ウォッチはケータくんに無料でお貸しします」
この恩がましい台詞で第一話の初エピソードが終わるのである。

©l5/ywp・tx
©l5/ywp・tx

第1話は非常に不気味な雰囲気の中で始まり、不気味さを残しながら終わる。それは「妖怪」をテーマにしている特殊性からの不気味さだけではないような気がする。子供も大人も楽しめるという『妖怪ウォッチ』には、子供らしからぬ不気味さがある。例えば、勝手に「妖怪ウォッチ」を貸しておきながら、「無料で」というシーンを考えてみよう。子供向けアニメでお金のことを話すとはどうだろう。もし普通の子供がケータのように「妖怪ウォッチ」をもらうとするならば、「ありがとう」や「なんでぼくにくれるの?」と言うと思う。決して「これいくらで貸してくれるの?」とは聞かないはずだ。またウィスパーを封印したのは「正義気取りのお坊さん」であるのもおもしろい。子供アニメに夢と正義を期待するのは大きすぎる夢になったのかと思ってしまうからだ。作り手はウィスパーの存在を通して最初から「正義気取り」を否定する。

このアニメが10年前、もしくは20年前に放映されたのならケータは様々な不祥事を引き起こす妖怪たちを見て、正義感に燃えて問題解決に取り組んでいただろう。だが、21世紀のケータにそれを求めるのは難しい。「愛と正義のために」戦った『美少女戦士セーラームーン』のヒロイン月野うさぎの時代は終わってしまった。みんなの平和や正義の実現のためになんて言っていたら「中二病」と言われ、馬鹿にされる時代なのだ。

© 武内直子・PNP・講談社・東映アニメーション
(「愛と正義のセーラー服美少女戦士、セーラームーン!」が決め台詞であった月野うさぎ) © 武内直子・PNP・講談社・東映アニメーション

「悟り世代」と呼ばれる今日の子供たちは、夢や希望を持っていてもやがて挫折されるだろうという灰色の現実をよく理解している。今までの世代に当たり前とされていた「思春期」の段階に「中二病」という病名が下されるのが21世紀の日本だ。「KAGOY(Kids Are Getting Older Younger:子供たちがもっと幼い時から歳をとる)」と言われる今日において、子供たちは以前の世代よりも早く成熟する。認知発達においては子供のままだ。ここである面では大人びていて一方ではとても幼い両面性を持つ文化が子供たちの支持を得ている。

近代化の動きを導いた西欧諸国は、古代から中世、近代を経て今の時代を生み出している。反面、日本の近代化は日本人が主体として成し遂げたのではない。日本は島国だったため、閉鎖的で日本ならではの文化を持っている。そこに急な欧米文化を移植したために、様々な副作用が現れた。根本的な思想はそれほど変わっていないのに形ばかりを欧米化して行った結果「妖怪」という存在がポストモダン時代に融合され、消費社会の前線に立っているのは「日本」独特の現象だと思う。

『妖怪ウォッチ』は子供共同体を中心としてあまりにも単純なパターンで物語を展開しているが「非・子供っぽい」面も存在する。『妖怪ウォッチ』の世界観は、ミスマッチに見える怪談の中で生きてきた「妖怪」を持ち出し、「ごく普通の世界」と「非現実的な世界」を掛け合わせるだけでなく、「子供らしさ」と「子供らしからぬ不気味さ」を掛け合わせている。


[9]             http://toyokeizai.net/articles/-/39526


<目次>

1.『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム
2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義
3.ポストモダンと『妖怪ウォッチ』
3.1.妖怪と人間を「モノ」にする社会システム
3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という台詞のポストモダン的側面
4.「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)(②)
5.なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか
6.「ともだち」の背後にある暴力と権力 

『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち②)” への7件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中