3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という歌詞のポストモダン的側面
「妖怪の仕業」というのは、いくつかの意味で現代人の「生き様」を物語ってくれる。現代社会に蔓延している「科学万能主義」も、近代の思想に反発して思想の多様化を試みているポストモダン的発想もその根底に潜んでいるのは「妖怪の仕業」に責任を委ねている。あることが起こった際にその根本的な理由を探らずに、環境のせい、友達のせいにしてしまう世の中だ。『妖怪ウォッチ』に流れる曲はそのような風潮を物語っている。
「ようかい体操第一」の歌詞では「ヨーデル」とか「ローイレ」とか言った言葉に幾つかの言葉を入れ込んで何回も繰り返される。寝坊したことや何故朝は眠いんだとか言った類を入れ込み、それが妖怪のせいだと繰り返す。あの子に振られたの「こんなにイケメンなのに」と言って妖怪のせいにする。ピーマン食べられたのも妖怪のせいだと言う。
この曲を一度でも聞いたことがある人なら、このメロディーが頭にしばらく繰り返されるだろう。簡単な言葉の羅列の繰り返しとメロディの繰り返しは少し前に流行ったフックソングと同じ手法である。でも、この曲を作った人は自分が児童向けの歌を作っているという意識が欠如している。考えたとしてもそれは「子供からお金を取るため」だろう。『妖怪ウォッチ』はビジネスであるためそれを激しく非難する気はない。しかし、いくら商売だとしても児童に関する文化に携わっているものであるならば、最小限度の使命感を持ってほしい。
この曲を含め、『妖怪ウォッチ』の主題歌「ゲラゲラポーのうた」などを作った菊谷知樹は、プロデューサーから歌える曲を作るという感じではなく体操の曲というイメージでという指示をもらい、「体操だと割り切って作曲した」と言う。[10]
覚えやすく真似しやすい振付とそれを踊るかわいいキャラクター、中毒性のある反復歌詞など、子供たちを魅了する要素は十分にある。実際のところ、『妖怪ウォッチ』の全国的ブームと共に流行ったこの歌は、「子供がすべてを妖怪のせいにする」という点で親を心配させるに十分である。この歌によれば、寝坊したのも、あの子に振られたのも皆妖怪のせいだ。
しかし、私が考えるこの歌の本当の問題は、「悪いことを妖怪のせいにする」ことではない。まだ人格が形成されていない子供が無意識のうちに、何かの出来事に対して非主体的に考えてしまう結果を招く恐れがあるのが本当の問題だと考えている。能率・効率が何よりも重視され、人間がいかに優れた機械として動けられるのかを教える自己啓発書が最も売れている時代だ。
犯罪が起こるとその犯罪者がなぜそのような行動を起こしたのかを分析する番組が連日流れている。犯罪者の不幸な生い立ちを探っては専門家を呼んで分析し、同情したりもする。人間は環境の影響を多く受ける社会的動物である。だからと言って犯罪を社会的原因のせいにするのはよくない。人間が自らの主体性を失い、自らを客体化した結果を招くきらいがあるからだ。不幸な生い立ちを持っている全ての人が犯罪を起こしているわけではない。むしろその環境を克服するため人の何倍努力し、乗り越える人も多い。なのに、犯罪者の生い立ちを根掘り葉掘り分析したりする番組が当たり前のように放映されている事には反感を覚えずにはいられない。
『妖怪ウォッチ』は、そういった心理主義の社会風潮が「妖怪」という形で現れたものだ。問題はこれを見る主な視聴者が子供であるということだ。大変なことがあったときに環境のせいにしてしまうことを教えるのは自分の行動に対して責任を持たなくて済むと密かに教えているのではないか。マスコミは「ピーマンが食べられた」など、何かを成し遂げたときも「妖怪(外部からの力)」のせいだと考えるように仕向ける行為が如何に危険な「教え側」の役割をしているかについて考える必要がある。
私が『妖怪ウォッチ』を問題視するのは、製作側が何も意識していない段階のところで危険な発想を社会に送り込む媒体となりえるからだ。危険な発想というのは、後ほど述べる「支配のイデオロギー」であるが、これは後で詳しく見ていくことにして「ようかい体操第一」の製作者が力を入れて作ったと自慢するオープニング曲「ゲラゲラポーのうた」を見てみよう。「子供たちが聴く曲」という前提を崩さないことを前提に、ロック、ラップ、民謡調の3つのジャンルを合わせたという。
「ゲラゲラポーのうた」の歌に関して菊谷は、彼がこの曲を作る際、乗りやすいテンポで踊りやすい曲を作ることを心がけたという。また「ゲラゲラポーのうた」のヒット理由として、ゆったりとしたメロディーと「おてらのおやねは夕やけ舞台」などの歌詞が薄暗い夕方をイメージさせてどことなく気味悪い雰囲気を漂わせる歌詞の「若干気味が悪いところが良かったのかもしれない」と明かす。[11]
ラップと演歌調のフレーズがあり、変化に富んだメロディラインの少し気味の悪い違和感こそが中毒性の正体である。曲の頭と終わりが「ゲラゲラポー」の繰り返しで永遠にループできてしまう構成も、何度も聴かせるための仕掛けだと分析している。[12]
私はこの二つの歌を聴いて、『妖怪ウォッチ』の世界観にとても適切な曲だと思った。これらの歌は『妖怪ウォッチ』同様に21世紀日本の悲しい自画像に見える。歌の歌詞は、まったく言葉になっていない。言葉を破壊しながら、その内部では、この歌の消費者である子供たちを支配するための措置が仕込まれている。何のメッセージも含んでいない単語の羅列のように見える「ゲラゲラポーのうた」は、「消費せよ」というメッセージを何も包み隠さず発している。「イマ」というポストモダンな時代に相応しい形を取っている。
ポストモダニズムに対する代表的な批判としては、近代の理念を傷つけてしまっているということと多様性を追求するという建前で、人々を非倫理的かつ無気力にするというものが代表的である。しかし、私はポストモダニズムというもの自体がモダニズムのうちにあるものだと考える。人間の合理化を進め、科学の駒にしてしまう近代の動きに対する反感から始まったポストモダニズムは、混乱するモダニズムに過ぎないと思う。ポストモダンの思想は私と違ったあなたを理解し、受け入れるという精神が元になった部分もある。だが、普遍的なものを一切排除しようとするポストモダンにおいては普遍的な道徳規範を蔑にしてしまう場合もある。極端的な相対主義によって、混乱を招く恐れもある。古代ギリシアのソフィストたちを考えてみれば分かりやすい。極端的な相対主義は個人的な利益のみを追求させ、統合的な価値観や理念を崩壊する結果を招く恐れがある。
私が『妖怪ウォッチ』を批判し、嫌気が差すのは、消費資本社会とポストモダン特有の浅はかさをむき出しにして資本の論理に従い、次世代の教育そのものを破壊している部分があるからだ。テーマソングである「ゲラゲラポーのうた」はその軽薄で資本主義の原理そのものをコンパクトに見せてくれていると思えて仕方がない。
三つのジャンルをごちゃまぜにした「ゲラゲラポーのうた」は、ポストモダン的な構成である。マスコミは多くの所で子供の無意識を育つ役割を担っている。なのに、意味もなく、言語崩壊の秩序に子供を馴染ませている。言語世界の崩壊は精神世界の一貫性を曖昧にさせ、統合的思惟能力を奪いかねない。現代人が精神的病に苦しむ割合が増えつつであるのもこのような原因がかかわっているのではないかという不安も払拭できない。
[10] http://www.hochi.co.jp/entertainment/20141129-OHT1T50061.html
[11] 同上
[12] http://biz-journal.jp/2014/09/post_6035.html
<目次>
1.『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム
2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義
3.ポストモダンと『妖怪ウォッチ』
3.1.妖怪と人間を「モノ」にする社会システム
3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という台詞のポストモダン的側面
4.「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)(②)
5.なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか
6.「ともだち」の背後にある暴力と権力
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