血色に染まった9月の黄昏と乾ききった孤独な人間|『乾いた九月』ウィリアム・フォークナー

暑さが少し引いて買い物に行くと夏物よりも秋物が多く並び始める季節ですね。忙しく過ごしているうちにいつの間に年が変わりもう秋になってしまおうとしています。そんな9月の夜、私はみなさんにフォークナーのある短編を紹介させていただきたいと思います。

私がみなさんに紹介したい小説は「乾いた九月(Dry September)」です。フォークナーは先日ブログで取り上げたとこのある作家です。1年ぶりの投稿がなぜこの小説についてなのか…時間が早々と過ぎ去り2015年も9月になったことももちろんそうですがほかの理由があります。

それは、昨日の夕暮れの風景が「乾燥した九月」の最初の出だしを思い出させてくれたからです。今年は珍しく「秋梅雨」がある年だそうですが、昨日の夕方は珍しく晴れでした。そして昨日の夕焼けは、私にとってとても印象的なものでした。

私は外にいる時間よりも室内にいる時間が長く空の移り変わりにはあまり敏感なほうではないですが、昨日ふと窓越しに見た空の夕暮れは、とてもシュールでそのシュールさのゆえに美しかったからです。そして血に染まったようにも見えるあのきれいな夕日は、私にフォークナーの表現「the bloody September twilight(血の色に染まったその九月のたそがれ)」を思い出させてくれました。

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「乾いた九月」は、そのタイトル通り、乾ききった物語です。小説の中に描写される天気や自然もそうですし、ミス・ミニー、マクレンドン、ホークショーなどの登場人物もそうです。

ストーリーは単純です。ミス・ミニーという女性が黒人ウィルにレイプをされたという噂が流れ、その噂を耳にした街の男たちはウィルをリンチに向かいます。

私は最初この小説を読んだときに、うわさだけでリンチに向かう男たちと元兵士の無為の日々を満たそうとするような暴力的衝動、そしてそのうわさの真相に注目しました。

そういう噂が流れたという理由だけでウィルをリンチするという極端的な行動に驚きながら、そのような行動に走らせたマクレンドン、そして簡単に流されてしまう一般民衆の愚かさ、そして最後のマクレンドン夫婦の会話から読まれる人間の寂しさや孤独、断絶した人間関係の虚しさといった人間本性を赤裸々に表現したフォークナーに感心したからでした。

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ですが、よく見るとこのミニーという人物、「エミリーへの薔薇」のヒロイン、エミリーに似ているんですね。ミニーは、かつては社交界で花開いていた、男たちの羨望の対象でした。ですが、今は孤独な南部の独身女性にすぎません。今でいうならば、結婚適齢期を逃した未婚のイタイおばさんという感じでしょうか。

もちろん彼女はエミリーとは違って引きこもったりはしません。多くのイタイおばさんがそうであるように、若いときと同じようにおしゃれをして明るく振舞って生きています。変わったことがあれば男の反応ですね。昔だったら誰もがきれいな彼女にくぎ付けだったはずなのに今や街に出かけても誰も彼女の後を追おうとしません。それを肌で感じる彼女は過去の栄光と比べてしまい、自分の孤独を思い知らせているに違いないです。また彼女がレイプされたという噂を流した主犯として有力なことから、彼女がいかにさびしいかがわかります。

これを南部つなげて見ると、エミリーが過去の美しさやロマンを持つ「南部の表象」であったことに比べて、ミニーは「南部の当時の現実」であるように思われます。つまり、過去に美しく、輝いていた南部は時間が流れるにつれて、誰も追わないような存在、もう誰も羨望しない過去の栄光に引きずっているようなものに過ぎないのです。また、「エミリーへの薔薇」と同様に「信用できない語り手」であるかも知れない可能性を開いてみると、一番論理的に見えるホークショーも疑えざるを得なく、噂の真相を確認することはなお難しくなります。

ホークショーは「事実を確かめよう」とするとても常識的な人物として描かれていますが、生まれも育ちも南部であるにしても、とても北部的な思想に染まっている人のように見えます。そもそも、事実をどのようにして確かめることができるのでしょう。科学の発展や、理性中心の啓蒙主義が現れるにつれて、人々はすべてを論理的に、また理性的に確かめ、そのようにして確かめることのできるものだけを信じようとする強迫観念があります。またこのような啓蒙主義の下で、科学や産業が発達したことを考えると、ホークショーや語り手の真実性を疑うことができます。なぜなら、南北戦争で勝った北部は産業が発達していていたし、そう考えると語り手が「北部的な視線」に染まって、「南部女性」ミニーや、このすべての物事を見ている可能性が高くなるからです。

ミニーを「南部の淑女」として考えると、彼女が黒人にレイプされるのは、南部の歴史の一つの象徴であると考えられます。ロマンチックで洗練され教養豊かな、産業が発達したヤンキー的な北部に比べるとある意味で淑女的な南部が、敗戦後、北部の秩序に従い、無教養な黒人と平等になるのは、純白な南部が汚れられるような侮蔑感を感じたはずだからです。それがレイプという形で表現されたかも知れません。

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なお、マクレンドンはその北部的に染まっていく南部に何もできない無力な「元兵士」にすぎないことを考えると、あの暴力性を理解できるでしょう。彼には戦争の時には必要とされる勇猛性や指導力やカリスマ(ここでは悪い意味で男たちを扇動するような形で現れるだけですが)があり、それらの能力が小説の背景となる、一見平和な、無為な世界ではいかに無力かという虚しさを見せてくれるのではないかと思いました。新しい世界で順応できず、噂だけかもしれないところに憤怒をぶつけてしまう孤独で虚しい、また無力になってしまった「南部人」であることを最後のマクレンドン夫婦の会話が示してくれるのではないかと思います。

フォークナーの小説はいつも二重の意味で楽しむことができます。この小説も「南北戦争以降の時代を反映する小説」として読むと、違った視線から考えられておもしろいです。フォークナーの小説は難解さで有名ですので、まずは短編からもいいかもしれないですね。光る天才性を感じさせる作家はなかなかいないのですから。

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しばらく雨が続くそうですね。ジェファーソンの乾いていた9月とは違って東京は濡れています。ですが、雨音以外何も聞こえない静寂に包まれた私の世界もマクドレンが眺めたジェファーソンの夜と同じく「(暗闇が)冷たい月とパッチリ目を開いた星の下で、傷ついて倒れているよう( The dark world seemed to lie stricken beneath the cold moon and the lidless stars)」に見えます。

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