カイユボットの「床に鉋をかける人々」―この絵を初めて見たのはいつの頃でしょうか。おそらく小学生か中学生の辺りだっただろうと思います。最初この絵を見たときは、この絵があまり好きではありませんでした。あの頃の私は、こういった近代化の暗い面、都市生活の労働者などを描く画家は、とてもつまらない画家だと思っていたからです。
当時の私にとって、画家たる者は、「美しさ」を求める人々でなければなりませんでした。その「美しさ」というものが単純に様式の美しさや内容の美しさに限られたものではありませんでしたが、究極的には美しさを求め、見つけ、表現するのが芸術家の宿命だと考えておりました。例えば、近代生活の裏面を描いたドガの絵がそれ自体としては美しくありながらも、同時に赤裸々に当時の社会の汚さを暴露していたように、人間の暗闇さえも愉快にあるいは美しく描くべきだと思っておりました。究極的には美を追求し表現する―どんなに辛い現実に出くわしても…です。それがすべての芸術家のミッションだと思っていたのかもしれません。
そういった私にとって、ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)はとてもつまらない、もしくは顔を背けたくなる画家でした。彼の作品は、私の目にはどこか暗く映りました。少し薄暗い背景もそうですし、そこに立っている人々も幸せには見えなかったのです。ただその日を必死に生存しなければいけない人たちのように思えました。ただそこに投げられた存在のような人間、矛盾や理不尽に立ち向かう力も情熱もないような灰色の人間です。私はカイユボットをそういった無気力な現実を描いている画家だと考えておりました。彼の絵で最も有名な絵の一つである「パリの通り、雨(パリの街角、雨)」を見てみましょう。
ギュスターヴ・カイユボット、「パリの通り、雨(パリの街角、雨)」、1877年

(原題:Rue de Paris, temps de pluie, 英: Paris Street :Rainy Day)
ギュスターヴ・カイユボット、1877年
シカゴ美術館
油彩、カンヴァス
209×300cm
湿った空気の匂いがしそうなこの作品は、雨の日のパリの通りを描いた作品です。画面の前景に描かれた、右のほうに視線を向けて歩いている二人の男女と彼らの方向に向かって歩いている男性の後ろ姿が見えます。街中を歩いている人々は、互いに視線を向けることなく、黙々と目的地へと足を運んでいるような印象を与えます。傘を差した男女ですら互いの顔を合わせずにいます。パリの通りを歩く人々が着た黒い服と暗い天気は、彼ら一人一人が感じる孤独かもしれないし、彼らが生きる憂鬱な日常かもしれないし、都市化されていくパリの暗い現実かもしれません。カイユボットは、パリの通りを歩く匿名の人々の偶然な瞬間をカンヴァスの上で再現しました。カイユボットの絵はあまりにも現実的で、あの風景を見つめただろうカイユボットの落ち着いた視線が垣間見えます。瞬間的なリアリティを強調している彼の作品は、実は、客観的な観察に基づいています。また彼独特な画面構成は、リアリティを際立たせるために考えこまれた結果です。こういった点でカイユボットは、ドガに少し似ていると思います。ドガが主に女性を描いたことに比べ、カイユボットは男性を描いていましたが。
私がカイユボットの絵を見て感じた不快感は、彼の作品があまりにも現実的だったからかもしれません。彼の作品の中の人々は、疲れ切った顔で満員電車に乗るサラリーマンの姿を連想させます。カイユボットの絵から目を背けたくなるのは、カイユボットのカンヴァスの中に生きている匿名の彼らの不幸と疲労が、あまりにも生々しく描き出されているからかもしれません。カイユボットは、21世紀の我らに似た19世紀のパリジャンの暗い現実をファンタジーに包むこともなければ、強調することもなく、ありのまま描きます。それゆえ、美化されない憂鬱なパリ人の日常の疲労は、よりリアルなものとして伝わります。グレーがかったブルー、私がカイユボットを思うと連想する色でした。
そして先日、「オルセー美術館展、印象派の誕生―描くことの自由―」で、カイユボットの「床に鉋をかける人々」に出会いました。この作品は、先日描いた「オルセー美術館展」レビューで紹介した私が最も泣いたあの作品です。
ギュスターヴ・カイユボット、「床に鉋をかける人々」、1875年

(原題:Raboteurs de Parquet 英:Floor Scrapers)
ギュスターヴ・カイユボット、1875年
オルセー美術館(パリ)
102×146.5cm
油彩、カンヴァス
実は私、カイユボットの絵の中でもこの絵が最も嫌いでした。「この画家はなんでこんなに暗いものばかり描くかなー」と思ってしまうほどに…そして実際に目の前にこの絵と向き合った瞬間、私はこらえきれずに泣いてしまいました。鉋をかける労働者たちの誠実さ、そこから浮かび上がる匿名の労働者たちの実存、粛然さえも感じられる彼らの平然とした日常の美しさへの敬意と同時にこの絵に取り囲まれてしまったことへの悲しみが混ざり合い、何とも説明できない感動で言葉が見つからずそのまま泣いてしまいました。
この絵に描かれているのは3人の男性です。彼らは、ブルジョアの部屋であろう一室の、古くなった床を鉋で削っています。筋肉質の彼らは上半身裸で一生懸命汗を流して働いています。床を削っていく作業はとても辛そうですが、彼らは黙々と跪いたまま腕に力を入れて床を削っていきます。なんとなくこの絵の背景は、初夏の頃で、セミの鳴き声が賑やかに聞こえてくるような気がします。息が詰まりそうな蒸し暑さの中、汗を流して働く労働者を囲むこの部屋はどうでしょう。きっともわっとしていて汗と木と工具の匂いが混ざった甘酸っぱい、いや、苦くて渋い匂いがしてくるような錯覚に陥りそうです。右側の男性が、真ん中の男性に「あついっすね」とか、「なかなか削られませんね」といった話をしていそうな気がしました。朝方、仕事に出る際の妻の小言やお腹をすかせた子供たちの泣き声などは丸ごと忘れて今、目の前にある仕事に没頭している姿に熟然とした尊敬の念さえも湧いてきます。労働の姿をこんなに事実的で美しく描ける画家がまたいたのでしょうか。鉋をかけている彼らの体を、窓から入ってきた光は明るく照らしています。彼らの汗は光り輝き、長く繊細な線を描きながら削られた床も生々しく光っています。今この瞬間を彼らは生きています。カイユボットが彼らを眺めたであろう19世紀ではなく21世紀の今日も、そしてこれらからも。
私はこの絵を見て、カミュの「シーシュポスの神話」を思い出しました。

神々の怒りを買い、永遠に大岩を山頂に押しあげるという刑罰を科されたシーシュポス。山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまうため、シーシュポスの刑罰はいつまでも終わらず、永遠に続きます。「かわいそうなシーシュポス」と思うかもしれませんが、カミュによると、シーシュポスはちっともかわいそうではありません。確かにシーシュポスが置かれた状況は不条理ですが、それでも彼は、不条理の中で、自らを否定し、絶滅させ、抵抗し、破壊し、疑うことのできる「自由」という力を持っているからです。その力をもって現在の自分を変え、選択し、規定することもできます。彼はその岩の不条理を自分のものとして受け入れ、自らの責苦を凝視します。そうする時、シーシュポスは真の意味での自由な人になり、永遠にその不条理と向かい合い、岩より強くなれると、カミュはいうのです。
「床に鉋をかける人々」の真ん中に写った顔のあまり見えない男性は、カイユボットのシーシュポスのではないかと思いました。顔よりも労働する身体、力を入れた腕の筋肉と彼が両手を合わせて持った鉋が強調されて見えるこの男は、カイユボットの視線によって永遠に鉋をかける刑罰を受けているのではないでしょうか。
そう考えると、今まで日常的すぎてつまらない、また目を背けたいと思っていたカイユボットの視線が、実は、誰よりも残酷なものだったように思えました。彼は、ドガが「エトワール」の彼女に与えたような一瞬の歓喜さえもカイユボットは与えてくれません。彼が淡々と現実をカンヴァスに写している感じがします。確かに労働者を描き、抑えた色を使っていたという点で類似点が見られます。しかしありのままの社会を告発する画家の情熱のゆえの毒を感じるのですが、カイユボットの見つめるクールな視線は、描かれる対象とは一線を置くことによって彼らを客観化するという点で、身分の違いのゆえの客観さを感じさせます。
裕福なブルジョワ階級に生まれ、莫大な財産を相続したカイユボットは、最初から労働者とは、違った者として生まれたのかもしれません。彼は貧しい印象派の画家たちを支援し、彼らの作品を収集したことでも有名ですが、貧しさの美学に心のどこかで憧れていたのではないかと感じました。ルノワールは、彼が画家のパトロンとして有名でなかったら画家としてもっと認められたはずと言っていました。
働かずにして多くの財産を手に入れたカイユボットは、鉋をかける労働者たちを桁外れの高い視線で見つめ、私たちに彼らを見下ろすように誘います。そして壁を低い位置でトリミングし、働く労働者と彼らが削る床に観客の視線を集中させます。傾いた床ほど19世紀のパリの労働者たちが立っていた生の営みの場は危なっかしいものだったのかもしれません。
しかし、一生懸命に汗を流しながら働く彼らには、そういったものは重要ではありません。彼らは傾いた床には気づいておらず、いや気づいたとしても気にせず、彼らに与えられた仕事―この床を削ること―を貫きます。彼らは、彼らに永遠に終わらない労働の刑罰を与えた画家の残酷な視線に興味を向けず、そして自分を見つめる観客にも目を向けず、一生懸命鉋で床を削っています。
ああ、なんと美しく尊い姿だろう!
カイユボットの視線に捉えられることによって、カンヴァスの中で永遠に鉋をかけなければならなくなった名前も顔もない彼ら。しかし彼らは、誰よりも強く、そして美しく、自由な存在として実存し続けるでしょう。どんな不条理よりも強いシーシュポスのように・・・
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