スーパーパワーを持つスーパーヒーローになるとしたらあなたはどのような武器を選びますか?アイアン・マンのような最先端スーツ?武器なんかは要らない超人的かつ物理的な力?それとも相手を自由に操る超能力?マーベル・ユニバースのリーダーと命じられたキャプテンが選んだ武器は、なんと普段は守備用の道具である盾です。なぜキャプテン・アメリカは、武器らしくない武器を選んだのでしょうか。
ヒドラ=ファシズムに染まったシールド
この問題について考える前に、キャプテン・アメリカの永遠な敵、ヒドラについて考えてみたいと思います。ヒドラは、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』に引き続き、キャプテン・アメリカの敵として表されますが、面白いのは、過去のあり方のままではなく、国際平和維持組織「シールド」を飲み込んだ悪として描かれているという点です。ヒドラは、ナチスの象徴として生まれた悪の集団でしたが、文字通りナチスやヒトラーを意味するのではないと思いますね。キャプテン・アメリカが第2次世界大戦でヒドラに立ち向かった理由が自由のためだったことを考えると、ヒドラは自由なき状態を意味することがわかります。シールドの内部でヒドラの勢力が力を広げ、シールドとヒドラの区分が曖昧になったことは、自由の実現のための国家であったアメリカがファシズムに染まってしまったことを意味するでしょう。

キャプテン・アメリカがシールドの中のヒドラを取り除く事でシールドを守るのではなく、シールドそのものを解体してしまいますが、それは、大きくなりすぎたシールドそのものが全体性に飲み込まれた悪であるからです。映画の前半で、シールドの長官ニック・フューリーが自慢げに話していた、シールドの内部にある武器施設は、人間の自由と平和のために結成された組織であったシールドがもう人間の自由を追求する組織ではなくなったことを意味します。他のどの組織よりも自由を追求すべき組織が、自分たちの利益のために、自分たち以外の人々を監視し、統制しようとすることは、なんと矛盾なことでしょう。ニック・フューリーは、人間なら誰にでも与えられるべき自由を制限しようとする傲慢な人間の姿を表しています。
科学技術は、本来、人間の生活をより豊かにするために生まれたものです。しかしニック・フューリーは、科学先端技術の本来のあり方に相反した形でそれを使おうとしています。他人を監視し続けることで他人の自由を抑圧し、人類の自由を自らが放棄するように仕向けるために、科学技術を用いるのです。それは、今日の私たちが犯している過ちでもありますね。キャプテン・アメリカが言うとおり、それは恐怖でしかありません。
世界平和のための組織を守るためなら人々の自由を抑圧してもいいと考えているようなニック・フューリーとそれに疑問を持たないシールドの組織員たちの姿が意味するのは、本来の目的を失いファシズムの原理に浸食されたシールド、いわば自らヒドラ化してしまったシールドです。如何なる場合でも目的を忘れた手段は悪です。映画は、シールドとヒドラという二つの組織の摩擦のように描かれています。スーパーヒーロー物語らしい善悪の二分法的な描き方ですね。しかし私は、『キャプテン・アメリカ2』におけるヒドラは、シールドの全体性を意味していると思います。ヒドラの勢力が知らずのうちにシールドの中で力を強めてきたというより、ファシズムの原理に染まって堕落したシールドをヒドラという象徴性で表したのでしょう。

今日の世界を映し出すシールド(S.H.I.E.L.D)
シールドは現代のアメリカを意味していると考えられますが、広い意味では、私たちが生きている世界を意味していると思います。私たちが生きている世界は、資本主義と民主主義の世界です。それは人間の自由を善なるものと考える社会であるはずでしたが、実態は強者のための自由のみが認められている社会です。
現代社会の生産組織は、目標と効率を中心とした全体性の論理で動いています。弱肉強食の資本主義で、私たちは絶え間なく働かなければいけません。経済的な効率性に個人と存在は生まれてしまったのです。理念を解体した現代は、人間の欲望を通して人間を振り回します。最も恐ろしいのはそれが当たり前になって、自分が自由を失い、ムチに打たれながら走っていく馬のようになっているのにも関わらず、「私は自由である」と洗脳されて生きていく事態です。
人間は市民革命を通じて自由を手に入れ、自由な選択を重んじる資本主義を築きました。しかし、この自由というものを効果的に使うのは人間ではなく、資本主義です。資本主義によって、唯物的な思考を始めた人間は自ら欲望の奴隷になってしまいました。すでに昔の王よりも裕福な生活をしている現代人は、物質中心的世界観に囚われ、無限なる競争を始めます。それは私たちに生存そのものに関する不安を呼び起こします。人間らしく生きるためにお金を追求するのではなく、お金への欲望のために人は互いに争い、現代人は得体のしれぬ不安に駆られます。このアイロニカルな実態は、人間実存の危機なのです。
そう考えると、自由のために存在するキャプテン・アメリカが、第2次世界大戦当時のスーツに着替えて戦いに出る場面はとても象徴的です。キャプテン・アメリカが戦わなければ謎の暗殺者ウィンター・ソルジャーは、スティーブ・ロージャスの古き友人であるバッキーです。友達でありながら敵であるバッキーが示すのは、欲望に従うロボット化した人間の悲しい現実でもあります。人間をより豊かにするために始まった科学技術が人間を無限な競争の原理に巻き込み、科学技術に従属した生き方を強いられていますからね。それゆえ、近年のヒーローたちは、悩み苦しみ、時には堕落していたのかもしれません。
自己を守り続ける人間存在であるキャプテン・アメリカ

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私は、キャプテン・アメリカという英雄になる前の、虚弱な青年スティーブ・ロジャースに、世界大戦によって成長する前のアメリカを見ます。可能性を秘めているけれど、まだ力がなく、弱い青年国家だったアメリカです。虚弱な体を持つが誰よりも健康な精神を持っていたスティーブ・ロジャースが超人兵士の実験で背が伸びて筋肉質の男、いわば人間の理想的な体に代わっていく姿は、実は、私にとってある意味とても悲しい場面でした。科学技術によって武器化してしまったスティーブは、今回の映画『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の悪役と言える人間武器ウィンター・ソルジャー、バッキーに非常に似ています。バッキーは、スティーブ・ロジャースの大親友でしたが、ナチスによって記憶が消され、「誰かを殺せ」という命令の下で動く機械となった悲しいサイボーグです。


スティーブ・ロジャースが、彼と同じように人を殺すための科学技術の犠牲となるウィンター・ソルジャーであるバッキーと区別されるのは、彼を新しく生み出した科学技術に負けず、スティーブ・ロジャースとしての自我、存在を強く保ってきたことにあります。人間らしくあり続ける意志こそが、どのスーパーパワーよりも強い力であり、それゆえ、スティーブ・ロジャースはアメリカのキャプテン、スーパーヒーローのキャプテンとして尊敬されるのでしょう。
『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』はイデオロギーが生きていた古き時代から現代の今日に訪れてきたアナログな英雄を見事に描いています。科学の力を借りてはいますが、キャプテン・アメリカは人間らしい側面が目立ちます。彼は弱い人の心を知っていながら完成に向かって旅をする努力型ヒーローです。精神力だけで始まり、他のヒーローを統率するリーダーであることができるのは、彼がもっとも弱い人間でありながらも正義の実現のために進化するヒーローだったからです。一見面白みのないような真面目でまっすぐな性格、仲間のために犠牲することを惜しまない心は、過去からきた英雄ならではの魅力です。キャプテン・アメリカのキャラクターは、古き良き時代のロマンを思い起こさせる部分が大いにあり、ビッグデータや先端技術、SFの要素が繰り広げられる中でも、この映画はキャプテン・アメリカというキャラクターが持つアナログさを引き立てています。


キャプテン・アメリカが盾を持って戦う理由について考えてみましょう。アベンジャーズのリーダーならば、リーダーという名にふさわしいかっこいい武器を持って戦ってほしいところですが、キャプテン・アメリカの武器は、地味で攻撃力の低そうな盾です。剣でも矛でもない盾は、戦いにおいて一見非効率的に見えます。しかし、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』を見終わった後、スティーブ・ロージャスが盾を持って戦わざるを得ない理由に関して、皆さんは納得したはずです。打たれてくる銃弾を跳ね返す完璧な守備力だけではなく、投げたときの破壊力も申し分ないですね。また、投げては必ずスティーブ・ロージャスに返ってくるところもいいですね。このように非現実的な技術を自然に見せるクリス・エヴァンス(キャプテン・アメリカ役)のアクションは見事でした。
キャプテン・アメリカは、自分の信念を守り続けることで自分の存在理由を示すヒーローです。キャプテン・アメリカは目的を忘れ、手段に惑わされる混沌の時代に、それでも人を信じ、自分が正しいと思うもの(自由)に向かってまっすぐに立ち向かいます。その姿は、実存の危機に晒された現代人に、自分の生き方を通して人間であり続けることの美しさ、その尊さを伝えてくれます。
キャプテン・アメリカとして、そしてスティーブ・ロジャースとして彼が導き出した結論は、「初心に戻ること」でした。イデオロギーを解体し、欲望に振り回されるのではなく、まず人間のあるべき姿に戻れというのです。自分の究極的な目的に向かうためには、まず内面の声に耳を傾け、共同体全体の善なる正義の実現のために自分の生涯をかけて努めなさいというのです。そのために、他人を殺したり見張るのではなく、自分をしっかりと守り続けなければならないというのです。彼が守備型武器である盾を持って戦う理由でしょう。自ら攻撃するのではなく、攻撃から自らを守り、相手の攻撃が発したところに戻るという設定は考えさせるところがありますね。
マーベル・スタジオは、来年公開する「アベンジャーズ2」以降、また個々の世界観を持つ個別キャラクターのストーリーに集中しなければなりません。個別ヒーローのシリーズが3篇以上ずつ進行した現在、シリーズの拡張を選ぶかリブートに戻るか悩むでしょう。しかし、今後のマーベル・ユニバースについて一つだけ確信できることがあります。アメリカの愛国主義や英雄主義ではなく、マーベルが語るべき究極的なテーマは、人間がどうあるべきかであるでしょう。その先端に立つキャプテン・アメリカの精神のように。
[…] 2015年4月11日 虚弱な体を持つが誰よりも健康な精神を持っていたスティーブ・ロジャースが超人兵士の実験で背が伸びて筋肉質の男、いわば人間の理想的な体に代わっていく姿は、実は、私にとってある意味とても悲しい場面でした。 スーパーパワーを持つスーパーヒーローになるとしたらあなたはどのような武器を選びますか?アイアン・マンのような最先端スーツ?武器なんかは要らない超人的かつ物理的な力?それとも相手を自由に操る超能力?マーベル・ユニバースのリーダーと命じられたキャプテンが選んだ武器は、なんと普段は守備用の道具である盾です。 ヒドラは、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』に引き続き、キャプテン・アメリカの敵として表されますが、面白いのは、過去のあり方のままではなく、国際平和維持組織「シールド」を飲み込んだ悪として描かれているという点です。 世界平和のための組織を守るためなら人々の自由を抑圧してもいいと考えているようなニック・フューリーとそれに疑問を持たないシールドの組織員たちの姿が意味するのは、本来の目的を失いファシズムの原理に浸食されたシールド、いわば自らヒドラ化してしまったシールドです。 [引用元] なぜキャプテン・アメリカは盾を持って戦わざるを得ないのか|『キャプテ… […]