春が来たと思いきや肌寒い日々が続く毎日です。こんな時はこたつの中に足を延ばして心温まる映画を楽しむのもいいですね。例えば「幸せになるための恋のレシピ」はいかがでしょう。
2007年に公開されたこの映画は、フランスが愛する作家、アンナ・ガヴァルダのの小説<ensemble, c’est tout>を基にしています。2004年3月に出版されてから2年以上ベストセラーランキングの座を譲らなかった名作です。(読んだことのない方は是非!)映画化にあたっては「愛と生命の泉」という作品で広く知られているクロード・ベリが脚本から監督まで担当しています。
タイトルの<ensemble, c’est tout>は、直訳すると、「共にいる、それがすべてだ」という意味です。好きな人と共にこたつに足を入れて楽しむにはもってこいの映画でしょう。
共に生きることの幸せを描く映画、『幸せになるための恋のレシピ』

↑「幸せになるための恋のレシピ」のポスター。フランス
ポスターの中には主演のオードレイ・トトゥ(カミーユ)とギョーム・カネ(フランク)の後ろに、ローラン・ストッカー(フィリベール)とフランソワ・ベルタン(ポレット)が見えます。統一感のない四人の姿が微妙に面白いです。共に居るのに一人でいるかのように見えます。微笑みながらどこかを見ているカミーユと、少し寂しそうな眼をしているフランク、そしてフィリベールを見ながら何かを問いかけているように見えるおばあさんと、何かに気づいたようにどこかを見つめているフィリベールが見えます。彼らの表情だけでなく体の向きや位置もみなばらばらです。彼らの目線が向く先をよく見てみましょう。ポレットを除く3人はどこか同じところを見ているような気がしませんか?奇妙な共同生活を始める3人でもありますが。
原作は日本の翻訳本で『恋するよりも素敵なこと—パリ七区のお伽話』という題名で訳されました。私は「幸せになるための恋のレシピ」という映画の邦題より、こっちのほうがずっと気に入ります。これは、主人公カミーユとフランクの恋の物語でもありますが、「生きること」を語る映画でもありますから。


登場人物は、みんな、いささか不安定な人たちばかりです。カミーユは拒食症気味の清掃員であり、お母さんは薬物中毒。お母さんとの関係はぎくしゃくしています。料理人のフランクは働き蜂のように働きます。休みの日は養護施設に預けたお婆さん(ポレット)の面倒を見なければなりません。日頃のストレスに染みついた彼は乱暴で神経質です。貴族出身のフィリベールは、心優しい青年ですが言語障害をもっています。ガヴァルダは、この似つかない3人を同じ屋根の下で同居させます。彼らが共に暮らしながら葛藤し、理解し合い、成長していく姿を、愛情のこもった暖かい眼差しで見つめています。監督クロード・ベリはガヴァルダが作り上げたあたたかい世界を見事に再現しています。
目を引くような場面もなければ刺激的な物語でもありません。並外れた恋や事件もありません。しかし、ガヴァルダの斬新な発想と展開は私たちを一瞬も飽きさせません。傷ついた人たちが偶然なきっかけで集まってお互いを支え合いながら心の闇を乗り越えていく些細な日常を覗いてみるうちにいつの間にか私たちの心が温かい温もりに包まれているのに気付きます。物語自体はありきたりすぎて先が見えすぎてしまいはずですが、この映画は何回も繰り返してみてしまいます。作り手のセンスが問われるジャンルかもしれません。私たちの単純かつシンプルなメッセージをどのように描くかに作品の決め手があります。大きい葛藤も目立ったクライマックスもなく、登場人物たちの喜怒哀楽も大きく目立ちません。にもかかわらず、個性的な登場人物たちは生き生きと彼らの物語を進めていきます。ありきたりなプロットの中の斬新なアイデアとはこの映画のことだと思います。
ガヴァルダは、彼らがどのように共に生きていくかという日常に注目しています。映画は彼らがそれぞれ抱え込んでいた既存の問題を大胆にカットします。例えば小説では天才画家だったカミーユがなぜ清掃員になったのかなどが書かれています。映画は彼らの内面の問題を詳しく描かず、軽く暗示する程度で終わらせます。ただ、彼らの生活を見せて互いの関わりの様子に注目させます。独特なキャラクターの性格を垣間見せる登場人物の会話もおもしろいです。ヨーロッパならではの言葉の遊戯は映画の旨みを引き出します。まるで「知り合いの誰か」の噂話を聞いているような気さえもします。だから小説を翻訳した方はこの物語を「おとぎ話」というのです。
(❋注意:ここからはネタバレを含みます。ネタバレが嫌いな方は、[backspace←]を。)

映画は、健康診断を受けるカミーユのシーンから始まります。そして倒れたポレットとその連絡を受けるフランクの場面が続きます。次に出てくるのは、カミーユが仕事帰りにその日、誕生日を迎えたフィリベールと出会う場面です。この映画で個人と個人が初めて関わりを結ぶ場面です。この偶然なきっかけで、狭い屋根裏部屋に暮らしているカミーユと貴族出身のフィリベールが友達になるのです。

この二人が友達になっていく場面がおもしろかったです。二人は、スーパーマーケットで再び出会うのですが、フィリベールを見つけたカミーユの笑顔がとても可愛いかったです。カミーユは夕飯にフィリベールを誘います。「なぜぼくを?」と驚くフィリベールですが、カミーユは、食卓というほどの大げさなものではない、小さなピクニックだと彼を誘います。


何日か後、フィリベールは、家紋が入った高級なピクニック食器セットとバラの花束を持って、狭い屋根裏部屋に訪れます。フィリベールのかしこまった姿と物置のような部屋とラフなカミーユが対照的です。フィリベールはすごく丁寧に話しますし、カミーユはフランクな口調で話しています。ピクニックと言いながらも、摂食障害のあるカミーユはほとんど食べていません。それを見て、細見の優雅なマドモアゼルだというフィリベールもおもしろいですね。セリフ一つ一つ、場面一つ一つにユーモアが感じられます。

この似つかない二人は、すぐ仲良くなります。フィリベールとカミーユの会話から、彼らが個人主義的なパリの生活に寂しさを感じていることが伝わります。フィリベールはルームメイトであるフランクとほとんど話すこともなく、同じ家に住んではいるがほぼ他人のような状態です。
お互いを、「美術館」と「オフィス」で働いていると自らを紹介していたフィリベールとカミーユは、ピクニックの終わりに、「美術館の外で葉書を売るだけ」、「オフィスの掃除をする清掃員」であることを明かす場面も愛らしいです。

フィリベールの家ではいつものようにフランクが女を連れ込んでいます。一方、帰宅したフィリベールは、ピクニックに持って行った家紋が入った皿が散々に割れちゃって慌てます。このシーンはおそらくフィリベールが、彼の由緒正しい家紋の重さから彼を解放されることを示すのでしょう。恐らくその一歩を進ませてくれるのは、カミーユでしょうね。
一方、カミーユはどうしてもお母さんとうまくやっていけません。映画では詳しく描かれていませんが、小説によると、カミーユは、小さいころからお母さんに傷つけられながら育ったせいで摂食障害になったそうです。場面が切り替わり、髪をベリーショートに切るカミーユが見えます。(フランクの表現を借りれば、ゲイボーイのよう)彼女はそんな自分を一生懸命スケッチしています。私はこの場面で初めて彼女が絵を描くことがわかりました。とても上手です。この日から彼女がスケッチブックから手を離す日はありません。カミーユもフィリベールとのかかわりをきっかけで変わり始めたのでしょうね。

ある日、インフルエンザにかかったカミーユは、フィリベールに助けられ、そのままフィリベールの家に住むことになります。看病をしてくれたフィリベールのやさしさに「見返りを求めず、やさしくされたのははじめてだ」と幸せな顔をします。フィリベールが用意したスープを一口飲んでオードレイ・トトゥが浮かべる笑みは、はじめて他人の無条件なやさしさを経験するカミーユのうれしさ、もしくは安らぎの気持ちがよく表現されています。
しかし、毎日忙しい日を送り、休みもないフランクは、カミーユの存在が気に入りません。大好きなお婆ちゃん、ポレットの面倒を見ることがいつの間にか重荷になってしまって疲れ切っています。毎日酒を飲んでは女を連れ込んで大きな音量で音楽を流しながらバイクを飛ばすことでしかストレスを発散する道がないのです。そして、そのストレスをカミーユに当て付けるようになります。ここで二人の間の葛藤が描かれますが、この葛藤は長くは続きません。ポレットに怒って泣かせてからすぐ申し訳なくなってポレットを抱きしめて頭にキスをするほど彼は自分のおばあちゃんを愛していますし、ポレットの面倒からきた疲れをカミーユに八つ当たりしてしまったことを知っているからです。カミーユとフランクの関係が一番険悪化するのは、カミーユがフランクの音楽プレイヤーを窓から投げてしまう時ですが、これはフランクの鎧を壊すことを示していると思います。その次の日にフランクは自分を反省してカミーユに謝り、本当の意味での3人の共同生活が始まります。

こうしてみると、カミーユ、フィリベール、フランクはみんな自分がもっていたものを壊して、または壊されてから、互いに真心で関わることができるようになっていきます。後に恋に落ちるフランクとカミーユの対比も面白いです。料理人の男と拒食症の女、マッチョイムズの男と繊細すぎる女が付き合いますからね。正直、カミーユがフランクに惹かれることはとても意外でした。普通のパータンは貴族の青年と恋に落ちるのですから。
この意外な組み合わせがどのように惹かれあって愛し合うようになるのかについて詳しく描かれず、妥当性が与えられなかったことはすこし残念です。しかし、だからこそ私はこの映画をロマンス映画ではなく、成長物語としてみています。二人の関係を考えると、二人が恋に落ちるというより、二人が互いに慣れていく、慣らしていく過程だと言うべきかも知れません。また、フィリベールとフランク、フィリベールとカミーユ、カミーユとフィリベールと友情においても、お互いに慣れていく過程を作家は描きたかっただろうと思います。3人の共同生活が慣れてきた頃、カミーユはポレットの面倒を見ることを申し出ます。そして3人の生活、いわば新しく作られた家族の共同体にポレットが加わり、世代を超えた友情を築き上げます。


カミーユ、フィリベール、フランクのそれぞれの傷を見てみましょう。映画のはじめの部分、お母さんとごはんを食べるシーンと、フィリベールとごはんを食べているシーン、そしてフランクと仲直りをして仲良くなったところで実家から帰ってきたフィリベールとフランクとの三人の外食のシーン。明らかに彼女の表情は明るく柔らかくなっていきます。(画面キャプチャーしていたものが消えてしまった上にネットで画像が見つかりません。すみません。泣)
外食では、味の不満をいうフランクに対して、フィリベールと口をそろえて、「でも悪くないよ!」といいます。また、フランクの親戚のところでの夕食のときはどうでしょう。「おいしい」と言いながら食べるカミーユの表情は、まるではじめておいしいものを食べた子供のようです。フィリベールとフランクとの夕飯のときは、「悪くないね」という感じだったのに比べて、食べることの喜びを知ったように見えます。また豚祭りの食卓でフランクの友達(豚のような顔をしている)と豚を重ねて書いているときの彼女の真剣な目を見てみましょう。彼女は大嫌いだった「食べる」という行為を自分が大好きな絵に描くことで、幸せと結びつけるようになったのです。その後、彼女はフランクと一晩を過ごすのですが(彼女のほうから!)、翌日の朝、「お腹空いた!シェフ、なんか作って!」と言います。大きな変化ですね。



次にフィリベールはどうでしょう。彼は葉書を買いにきた女優に惚れ、彼女に連れられて、演劇を始めるようになります。そこで紹介された音楽心理治療士を通した治療はとても効果的で、彼は自分の障害を克服していきます。「わたしは朝も夜も頑張っています。友人たちが助けてくれます」と歌っているシーンと、演劇当日、自己紹介で噛んでしまったときに慌てながらも、アドリブで笑いに変えた彼がとても愛くるしかったです。彼は大事な友人と愛する女性に出会い、積極的に自分のコンプレックスとぶつけ合っていき、乗り越えていきます。それがぎゅっと詰まっている演劇のシーンのフィリベールはとても自信に満ちていて、心に響きました。


最後にフランクは、カミーユと出会い、心を通じたかかわりを結ぶことによって、かつての攻撃的な態度ではなく、やさしく微笑む人に変わっていきます。毎週違う女を連れ込むこともなければ、大音量で音楽を流すこともなく、暖かい眼差しでカミーユとフィリベール、ポレットを支えていきます。まだ不器用ですが、素直になってきたといいましょうか。
共にいること、共にいながらお互いを愛し合い、理解し合う事。それが人生の最も大事な目的かもしれません。だから監督は「共にいることがすべてだというメッセージを私たちに送りたかったのではないでしょうか。心の傷は、人を通じて癒すことができるというのは、少しありきたりで、陳腐な表現かもしれません。しかし新しい目線から愛おしいキャラクターたちがつくりあげる暖かいラブストーリー(男女のそれだけではない)は決してつまらなくありません。まるで知り合いの誰かの心あったまるエピソードを聞いたような幸せな気持ちになります。
人生とは、「わたし」と「あなた」の関係によって成り立ちます。「人間」という漢字はとても深いと思います。ヒトは、人と人の間で生きるものだからです。ポレットの死と家の売却によって再びバラバラになったカミーユ、フランク、フィリベールは、フィリベールの恋人も加えて、新しいレストランを始めます。やさしい接客と素敵な絵、おいしい料理のある幸せな空間を彼らは築き上げたのです。自分の世界に閉じこもっていた3人の若者たちがお互いの壁を壊し、関係を結んでいく中で自分の弱みを克服していく、そしてみんなが幸せになっていくという物語がとても幸せな余韻を残します。映画を見て思いました。「生きる」ということの意味は、私が、私とは異なるあなたと家族を成すことにあるのではないかと。それが幸せだと。離れて住んでいる母に電話をしたくなりました。「どう?元気?」といういつもの少し不愛想気な電話を。
この映画、見たくなりますね。
由紀さん
是非!暖かいカフェオレのような映画ですよ♪